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横浜鶴見支部


寺尾城址
結成日 昭和41年9月10日
我が町我が支部 鶴見区は横浜市の北東部に位置し、江戸時代から東海道の街道筋として賑わい、また、幕末に発生した生麦事件で一躍有名になり、明治以降は、臨海部が埋め立てられ京浜工業地帯が形成されたことに伴い、飛躍的な成長を遂げました。近年は、鶴見川河口にかかる世界最大級を誇る斜張橋の鶴見つばさ橋や日本最初のビール工場を引き継いだ工場見学施設のキリン横浜ビアビレッジなどが観光名所となっています。また、大黒ふ頭先端緑地の海釣り施設や、千本余の桜の木と四季折々の花が楽しめる三ツ池公園、蛍が飛び交う獅子ヶ谷市民の森には、憩いを求めて多くの人々が訪れています。なお、明治天皇は明治元年(1868)10月12日(旧暦)、ご東幸の途次、生麦の八木下家でご休憩になっています。

相模原支部


勝坂遺跡
結成日 昭和41年10月23日
我が町我が支部 昭和29年(1954)に市制が施行され、首都圏の衛星都市として宅地化が進んでいます。戦前は陸軍士官学校を始め多くの軍施設が相次いで建設されました。戦後、その軍用施設はすべて米軍に接収使用されましたが、近年徐々に返還され「宇宙科学研究所」等の国の先端技術の施設や、相模野の面影を残す県立相模原公園などに変わりつつあります。産業は首都圏から近い地の利を生かし、世界的に有名なメーカーをはじめ多くの企業が進出し内陸工業地帯として発展しているほか、野菜栽培や梨などの生産も盛んです。平成21年(2009)4月1日には政令指定都市となり、緑区、中央区、南区の3区制へ移行されました。

大和支部


千本桜
結成日 昭和42年7月20日
我が町我が支部 大和市は神奈川県のほぼ中央部の都心から40キロメートル圏内にあり、平坦な大地と交通の利便性に恵まれたところです。市名は明治24年(1891)に村中が和やかに「大きく和する」とのことから大和村が誕生したことによります。昭和16年には相模原海軍航空隊が、昭和18年には厚木海軍航空隊が開隊となり、戦前には、首都防衛基地として役割を果たしたこともありました。この航空基地は、戦後米国海軍厚木基地(厚木市でなく大和市と綾瀬市の間にある)として存在しています。また、昭和18年に町制が施行され大和町となり、昭和31年には隣接の渋谷村との合併が実現し、この頃から民間企業の立地や都市化が進み、昭和34年に県下14番目の市として市制の施行がなされました。

厚木支部


高松山 明治天皇行幸碑
結成日 昭和42年11月21日
我が町我が支部 明治14年4月28日、明治天皇は当時の愛甲郡荻野村・愛名村で近衛諸兵の演習を天覧のために妻田村に行幸され、永野邸を行在所とされました(現在、高松山の山頂付近に行幸記念碑があります)。当時、前記の村は農村地帯で養蚕も盛んであり、また、山は薪・墨を目的とする山林でした。戦後、昭和30年に1町7ヶ村が合併して市制施行となり、その後、昭和37年「公害のない都市づくり」に着手して宅地開発に、また「工場誘致条例」を施行し、積極的に各企業を誘致した結果、精密機械、弱電、研究所を中心とする工業団地が完成し、更に昭和44年東名高速道路が開通し、インターチェンジの設置により陸の港として県央交通の中心地となり、県下有数の都市となりました。昭和49年4月、他の市町村に先駆けて「親孝行都市宣言」をして全国的に話題となりました。

川崎中央支部


川崎大師
結成日 昭和43年2月26日
我が町我が支部 川崎区は、東海道五十三次の宿場町として栄えた旧川崎町と大師河原平間寺の門前町として賑わった旧大師町、大企業で働く人達の住宅地だった旧田島の三地区で構成されています。明治22年、市制・町村制が敷かれ、川崎町が誕生。日清・日露戦争を背景に産業革命が進む中、東京に隣接する立地の良さから、企業が進出し、大正13年市制が施行され、昭和47年の政令指定都市移行時には東海道線以南を区域として川崎区が誕生しました。現在、川崎駅周辺はデパートや商店、飲食店などの繁華街、公官庁などのオフィス街や図書館などの文化施設が集中しています。一方、臨海地区にはコンビナートが形成され工場や原材料・製品群を扱う川崎港があるなど、川崎市の行政・経済・文化の中心となっています。

川崎中原支部


二ヶ領用水
結成日 昭和44年9月12日
我が町我が支部 中原区は川崎市のほぼ中央に位置し、大正15年には東急東横線が、昭和2年には南武線が開通し、それが武蔵小杉駅にて交差し東西南北いずれの地にも便利な所です。かつての中原区は二ヶ領用水の恩恵を受けて、米・麦・野菜・果物等の生産地で、特に桃は大変な生産高でした。現在は、南武線沿線にIT情報通信企業が集中しています。また、東横線元住吉駅近くには国際交流センターが開設され世界各国から親善交流や情報の提供に人々が訪れて来ます。また、政令指定都市の先頭をきって核兵器廃絶平和宣言を記念して平和公園が開園し、平成4年には平和館が建設され戦争と平和に関する様々な資料が展示されています。このように、川崎市を代表する諸施設が中原区には集中しています。

津久井支部


相模湖
結成日 昭和46年2月23日
我が町我が支部 当支部は神奈川県の西北部に位置し、旧津久井郡の城山町、津久井町、相模湖町、藤野町の4町からなり、平成19年(2007)にはすべての町が相模原市に編入され、現在は相模原市緑区に属しています。東は東京都、西は山梨県に接し、相模川が中央を流れ、三つの人造湖を持ち、県民の水瓶といわれている山間の地です。明治13年に明治天皇は東京都との境小仏峠を輿で越えられた後は、お籠に召され甲州街道与瀬宿の本陣坂本家にて御小休、次いで吉野宿へお進みになられ本陣吉野家にて御昼食の後、山梨県三重県及び京都を御巡幸、神戸から御船で東京に還御されました。御小休、御昼食をなされました相模湖町旧本陣坂本家、藤野町旧本陣吉野家は、大正時代に焼失しましたが、当時の資料は保存され聖蹟記念碑が甲州街道(国道20号線)に臨んで建っております。

横浜神奈川支部


明治丸
結成日 昭和49年3月17日
我が町我が支部 横浜市神奈川区は、江戸時代は東海道五十三次の一つ「神奈川宿」で、江戸日本橋を出て三番めの宿場町として大いに栄え、この地名がそのまま県や区の名前になりました。そして、ここが近代都市横浜の母胎でもありました。安政5年(1858)の日米修好通商条約では神奈川が開港場に決められ、多くの寺院が諸外国の居住施設として充てられた歴史をもっています。明治9年には明治天皇が奥羽巡幸をされ、帰路は、7月16日、青森から御召艦「明治丸」に御乗船され、函館を経由して20日、横浜の港に無事御帰着されました。この日を以て昭和16年(1941)に「海の記念日」が制定され、さらに平成8年(1996)からは「海の日」として祝日になりました。(現在は7月の第3月曜日)

川崎多摩支部


上河原堰堤
結成日 昭和49年11月19日
我が町我が支部 多摩区は川崎の西北端に位置し、その地形は多摩丘陵の一部と多摩川右岸の沖積地の部分より成り、北西は東京都に隣接しています。丘陵の先端には小沢城・枡形城などの館址があり、またこの地には義経・弁慶ゆかりの寿福寺や、源家累代の祈願所があった威光寺・現今あじさい寺が妙楽寺として市民に憩いの場を与えています。これらの史跡の山裾を這うように流れるのが、二ヶ領用水です。この用水は慶長の頃、15年の歳月をかけて、時の代官、小泉次大夫吉次が造成した命の水です。その結果新田開発が進み米の石高が倍増したとの記録が残っています。また生田緑地内には歴史的にも貴重な古民家の野外博物館川崎市立日本民家園や岡本太郎美術館があります。

横浜港北支部


熊野神社
結成日 昭和52年9月9日
我が町我が支部 明治41年(1908)に現在のJR横浜線が、大正15年(1926)に東急東横線が開通したことにより港北区は市の内陸部としていち早く市街化が始まりました。昭和初期には、綱島温泉が賑わい、日吉に慶應義塾大学予科が移転し、各駅周辺で宅地開発が進みました。特に、鶴見川周辺には工場が集積し、工業の一大拠点となりました。昭和39年(1964)に東海道新幹線の開通により新横浜駅が開業し、昭和60年(1985)に市営高速鉄道3号線が開通し、更に平成5年(1993)には港北ニュータウンの完成に合わせ青葉区まで延長開業され、これに伴い、準工業地域である新羽町に駅が出来たことから工場・倉庫から住宅への転換が見られるようになり、急速に住宅化が進みつつあります。

横浜保土ケ谷支部


橘樹神社
結成日 昭和54年8月28日
我が町我が支部 保土ヶ谷の地名は、江戸時代東海道五十三次の宿場町として栄えた程ヶ谷に由来し、また風景が良く、五十三次の中でも三本の指の中に入る景勝地であると言われています。保土ヶ谷区は、横浜の中央部に位置する人口密集地ですが、昭和20年(1945)横浜大空襲で全焼した天王町周辺の工業地帯は、今や官庁やオフィスビルに変わっています。帷子川・今井川の二つの川と、それを取り囲む三つの丘陵地形を利用しての農業も盛んに行なわれ、特に特産物の馬鈴薯「じゃがたらいも」は、安政年間に5人の作付責任者によって栽培が始められ、現在でも各家庭の食卓で親しまれています。明治天皇が明治元年(1868)の東京行幸の途次、保土ヶ谷にご小休され、それを記念して橘樹神社境内に「明治天皇東幸遺蹟碑」が建っています。

座間支部


大凧祭
結成日 昭和55年2月7日
我が町我が支部 当市は「キャンプ座間」があることで知られていますが、戦前は陸軍士官学校があったところで、戦後米軍に接収され、現在は在日米軍司令部が置かれています。また、昭和39年(1964)に日産自動車が進出し、座間工場としてピーク時には従業員7,400名を数え、日産自動車の企業城下町とまで宣伝されましたが、バブル景気崩壊後不景気の煽りで、平成7年(1995)には工場が閉鎖され、現在跡地の一部は日産自動車の販売店や座間事業所となっています。キャンプ座間や日産自動車の座間市への進出は、豊富な地下水が湧き出るということが大きな理由と言われ、今でも市営水道は地下水で賄われているなど、当市がいかに自然に恵まれているかを物語っています。伝統行事としては、江戸時代から続いている大凧揚げが毎年5月5日の端午の節句を祝い、相模川の河川敷で行われます。

川崎幸支部


臨幸跡碑
結成日 昭和55年2月13日
我が町我が支部 幸区は、川崎市の南部に位置し、東側は多摩川を隔てて東京都大田区に、西側は鶴見川と矢上川を境に横浜市に隣接しています。「幸」という命名は明治17年に明治天皇が小向村に観梅のため行幸されたことに由来しています。小向村は、江戸時代からの梅の名所でした。今は、横浜の「三渓園」に700本の梅の木が移植され、「御幸の梅」と名づけられています。府中街道沿いには、「明治天皇御幸之蹟」という記念碑が残っており、多摩川のほとり御幸公園には「明治天皇臨幸御観梅跡」碑が建立されています。区域は多くの住宅、事業所、工場等が立ち並んでおり、先端技術・情報・文化の進んだ町です。都市化が進むにつれて、地名も景観も変わりましたが、名所旧跡をもとに、この地に生きてきた人々の跡をたどることのできる場所が少なからず残っています。

横浜戸塚支部


大わらじ
結成日 昭和55年4月18日
我が町我が支部 戸塚は、鎌倉時代には鎌倉の玄関口として重要な役割を果たし、また江戸時代には東海道の宿場町として栄えました。明治4年廃藩置県により神奈川県がおかれ、鎌倉郡に編入。明治20年(1887)には戸塚駅が開設され、駅を中心として次第に発展しました。昭和14年(1939)鎌倉郡内の一町七ヶ村がまとまって横浜市に編入、戸塚区が誕生しました。昭和30年(1955)以降はワンマン道路(国道1号)の開通を始め内陸工業地域を結ぶ道路網の整備、根岸線の大船までの延伸などと歩調を合わせるように住宅団地の建設、宅地開発が進み、人口が急増しました。昭和44年(1969)には行政区再編成により戸塚区から瀬谷区が分区し、また昭和61年(1986)には行政区再編成により三分割(戸塚区、栄区、泉区)されました。

海老名支部


かかし祭
結成日 昭和55年8月29日
我が町我が支部 奈良時代中期、聖武天皇は仏教の力で反乱や飢饉・伝染病等国にかかる災いを除く為に諸国に国分寺の建立を命じましたが、海老名市内には相模国分寺跡(国重要文化財指定)があり、その大きさは武蔵国分寺に次ぐ国内二番目となっています。また、県指定天然記念物「ハルニレの木」通称「ナンジャモンジャ」は樹齢350年の大木で、徳川家光の頃に名医半井驢庵(なからいろあん)が朝鮮に渡り帰国時にこの木を持ち帰り、葉は「はれもの」、樹皮は「生傷の治療」に効果があるとされています。海老名駅を中心として昭和30年(1955)頃より開発が進み、現在駅前は商業施設を始め高層ビルへと変貌し、豊かな環境の下、海老名市名産の苺・トマト等が盛んに生産され、農業の現代化・機械化への取り組みがなされています。

秦野支部


曽屋神社
結成日 昭和57年5月8日
我が町我が支部 秦野は丹沢大山の山並みの南面に位置する街で表丹沢の玄関口ともいわれています。西方富士山の雄大さを四季おりおりに眺めることのできる街です。その富士山の噴火で運ばれた火山灰と関東ローム層の砂が適量に混じりあったおかげで日本でも有名な葉煙草の栽培に適した土地であり、江戸中期からさかんに煙草の栽培がおこなわれました。また落花生も明治時代の後期から栽培が始まり現在に続いています。そのような環境の土地柄ではありますが、昭和30年(1955)に市制が敷かれてからは首都圏の一翼を担う工業都市として発展しました。その工業を支えるのが地元の中小企業であり、その技術力をもって産業界を支えています。その結果、煙草栽培は昭和50年(1975)には秦野から消えて、落花生も細々と生産されるようになりました。

平塚支部


七夕まつり
結成日 昭和57年6月9日
我が町我が支部 平塚市は、みどり豊かな西部丘陵と市街地を挟むように流れる相模川と花水川下流域に発達した、気候温暖な湘南の海を前にした相模平野にあります。江戸時代、徳川家康はこの地に「中原御殿」を造り頻繁に訪れていますが、鷹狩りを楽しむためだけでなく、幕府の基礎を固める重要な政治の場として使われており、その間近に東海道五十三次の平塚宿を置いたとされています。明治に入り東海道線の開通と平塚駅の開設により、町は保養地としてさまざまな文人も集まり、湘南の文化を創造してゆきました。大正8年(1919)には中原御殿周辺に広がっていた広大な御林のある場所に海軍火薬廠ができたことから、昭和20年(1945)には大空襲を受け約7割の市街地が焦土と化しました。戦後の復興祭として始まった「湘南ひらつか七夕まつり」は、豪華絢爛な夏の風物詩として全国的に有名です。

綾瀬支部


城山公園
結成日 昭和58年11月28日
我が町我が支部 綾瀬市は神奈川県のほぼ中央に位置し、東は大和市、北西は海老名市、南は藤沢市にそれぞれ接しています。市内には三本の川があり西部を目久尻川、東部を蓼川、中央を比留川がそれぞれ南北に流れ、地形は緩やかな丘陵地帯と平坦地から成り立っています。昭和53年(1978)に市制施行され、緑と文化が薫るふれあいの街を目指す、商・工・農の均衡のとれた活気ある複合都市です。ところで、昭和6年(1931)、当時の綾瀬村が東郷平八郎元帥の祖先発祥の地と判定され、当時の村議会は直ちに東郷会を設立し、記念碑の建立を決定し、城山公園に記念碑が立てられました。元帥逝去ののち、元帥着用の軍服などの御遺物が綾瀬村に下付されています。

川崎宮前支部


高根森林公園
結成日 昭和59年11月6日
我が町我が支部 宮前区、高津区を東京から横浜方面へ向って走る国道246号線があります。この道路は江戸中期以降、庶民信仰や物見遊山に大勢の人が通った道で、特に大山参詣の中心道「大山街道」と呼ばれていました。さて、川崎市は戦後工業都市として短期間のうちに発展し、重工業から軽工業まで南部地区から中部・北部地区へと工業地帯が広がってゆきました。それと同時に人口が急増し、昭和47年(1972)川崎市は政令指定都市となり市内に五つの区を誕生させました。その後も人口増が止まず、昭和57年(1982)に高津区から分区するかたちで宮前区が誕生しました。宮前区はもともと農業地域で、農家の集落があちこちにあり農地と山林ばかりでしたが、東名高速の川崎インターチェンジ開設以降、急速に人口が増加し、東京のベッドタウンとして都市化が進みました。

大磯支部


明治天皇観漁記念碑
結成日 昭和60年3月24日
我が町我が支部 大磯は風光明媚な湘南の地にあって、古来より人々は半農半漁を生業として情味豊かな生活を営んできました。東海道線大磯駅から程近い照ヶ崎海岸に続く北浜海岸は、現在湘南第一のサーフィンのメッカとして常時若者の集う所ですが、ここに「明治天皇観漁記念碑」があります。明治元年、明治天皇が京都より東京へ行幸の途次、当駅の本陣小島才三郎宅を行在所にされ、この海岸で漁夫の網曳きを天覧になられました。その漁の様が非常に御意に適い、御菓子を賜った無上の光栄を永く後世に伝えようと建碑されたのがその由来です。大正9年(1920)、明治神宮造営に際し大磯町は、隣接の二宮町と共に海岸の玉砂利を神宮参道用に奉献したことからも、町民の明治神宮への崇敬の念は厚いものがあると存じます。

茅ケ崎支部


えぼし岩
結成日 昭和61年2月8日
我が町我が支部 茅ヶ崎市は、神奈川県の中南部に位置し、東京都心から約60キロ、相模湾に面した湘南地方の中心に位置しています。相模原台地の丘陵地帯と相模川の河口に形成された砂州地帯で、市内には小出川が南西に流れ相模川に注いでいます。江戸時代は東海道五十三次藤沢宿と平塚宿の間の農村地帯で、東海道中に二ヶ所しかない左富士の場所として浮世絵の題材としても知られました。戦前から戦後にかけては保養地、別荘地として栄え、夏には海水浴客、また一年を通してマリンスポーツを楽しむ人たちや釣客たちが訪れますが、近年は東京のベッドタウンとして都市化が進行しています。明治元年、明治天皇はご東幸の途次、茅ヶ崎の本陣でご休憩になっています。

川崎麻生支部


王禅寺ふるさと公園
結成日 平成元年12月14日
我が町我が支部 麻生区は、昭和57年(1982)に川崎市の行政区再編に伴い多摩区から分かれ誕生しました。新しい区名は市民から公募され、中世から麻生郷と呼ばれ歴史的にも伝統がある「麻生(あさお)」の名称になりました。区の誕生と共に地元地権者の積極的な協力により、公共施設である、区役所・保健所・福祉事務所等が統合された麻生総合庁舎、文化センター、スポーツセンターなどが建設されました。人口が急増したことにより、新百合ヶ丘周辺は、新しい住宅や商店が建ち並び急速な都市化が進んでいますが、梨園、ブドウ畑、野菜畑が数多く残されている地域もあります。また、王禅寺、東光院、修広寺、香林寺、琴平神社など古い歴史をもつ寺院や神社が沢山あるのも麻生区の特徴です。

西湘支部


明治天皇聖蹟の石碑
結成日 平成9年10月26日
我が町我が支部 東に相模湾を望み、西に蜜柑畑の丘陵が続く小田原から湯河原にかけての一帯を範囲とする当支部は、神奈川県の西部に位置し、西相模路とも呼称され、山川・海浜そして温泉などに恵まれた気候温暖で豊かな自然環境にあります。明応3年(1495)、北条早雲は小田原に居城を置き、政治・文化・経済の中心地として発展させました。江戸時代には東海道の宿場町として栄え、明治の御代からは保養地として脚光を浴び、伊藤博文や山縣有朋らが別邸を建設しました。一方、湯河原は古来より温泉地として名を馳せ、画家の竹内栖鳳、安井曽太郎や、歌人の与謝野鉄幹・晶子夫妻、さらには独歩、藤村、漱石など多くの文豪たちもしばしばこの地を訪れ創作の疲れを癒しました。明治元年、明治天皇はご東幸の途次、小田原の本陣を行在所とされました。

藤沢支部


江ノ島
結成日 平成12年5月14日
我が町我が支部 藤沢は、鎌倉時代に一遍上人によって時宗総本山清浄寺、通称遊行寺(ゆぎょうじ)が開かれその門前町として栄え、江戸時代には東海道五十三次の宿場、また鎌倉への経路の宿場町として繁栄しました。江戸時代中期以降は江の島弁財天信仰が盛んになり江の島詣で賑わいました。南は相模湾に面し、北は相模台地の穏やかな丘陵が続く気候温暖な湘南地方の中核都市として、藤沢市は昭和15年に市制を施行しました。潮風薫る海岸線と美しい緑に恵まれた住宅都市、景勝の地江の島を擁する観光都市、商工業・農漁業が盛んな産業都市、そして学園文化都市という多面的な顔を持つ都市として発展を続けています。明治元年、明治天皇はご東幸の途次、遊行寺を行在所とされました。